跡を継ぐのが嫌だった少年が大学で決意した魚屋の道

正直に言うと、子どものころから「跡を継ぐんでしょ」と言われるのがとても嫌でした。大学1年生までは教員になりたくて教職課程を取っていましたが、勉強ができずに挫折しました。そんなとき、「実家が魚屋さんなの?」と私の家業を知らない友人に何気なく言われました。その一言が心に刺さり、やっぱり魚屋なのかなと思うようになりました。そして大学3年生のときに両親と話し、家業を継ぐ決意をしました。
築地市場での修業が、今の経営を支えた

卒業後すぐに家業へ入らず、外で働いて社会を知りなさいと両親から言われ、築地市場の水産卸会社で2年間修業しました。ここでの経験が、私の仕事人生の基礎です。誰よりも早く出勤し、遅くまで働きましたが、給料は安く、辞めたくて毎週末実家に電話していました。それでも一番働き、一番学びました。何より魚に触れられることが楽しく、特別扱いされず従業員として立場を経験できたのは大きかったです。長く働く人たちの苦労や報われないこと、理不尽さや矛盾を知ったことで、自分が経営者になったら前に出るより陰で支える社長になろうと思うようになりました。この経験が従業員の気持ちを理解する基盤となっています。
非効率な仕入れを改革し、ブルーオーシャンを目指す

1995年、体調を崩したことをきっかけに長野へ戻り、家業に入りました。当時は社員それぞれがバラバラに仕入れを行い、同じ商品を重複購入するなど非常に非効率な状態でした。競合と同じ商品を扱っていたため価格競争に巻き込まれ、お客さまが離れ始めていたのです。私はこのままではいけないと考え、お客さま主体の仕入れへ変えるため担当制を導入しました。マグロならマグロ、サーモンならサーモンと責任を持つ担当を決め、仕入れを集約することで価格の主導権を握り、会社の基盤を立て直しました。その過程で「ブルーオーシャンを目指しなさい」という助言を受け、全国各地やアメリカまで足を運びました。英語も話せないままレンタカーを借り、誰も行かない産地に飛び込むなど無謀ともいえる挑戦を重ねたのです。この経験から日本の良い魚が海外に取られてしまうという危機感を抱き、自ら行動し続ける覚悟を持ちました。現在もブルーオーシャンを目指し独自の仕入れルートを追求しています。
※ブルーオーシャンとは、競争が激しい既存市場(レッドオーシャン)ではなく、競合が少なく新しい需要を開拓できる未開拓市場を指すビジネス戦略の考え方です。
「長野に漁港を!」ー海なし県長野で掲げる挑戦

長野は海なし県ですが、それは魚がおいしいと有名な豊洲や札幌も同じです。物流を工夫すれば豊洲市場とほぼ同じ時間で長野に魚が届きます。だからこそ、「長野だから魚がおいしくない」と言われる職人さんたちに不憫な思いはさせたくない。その一心で掲げたのが「長野に漁港を!」というコンセプトでした。
現場主義を貫き、魚の価値を自らの舌で確かめる誇り

私の経営の根底にあるのは徹底した現場主義です。机の上で数字を見ているだけでは魚の本当の価値はわかりません。だからこそ全国各地へ自ら足を運び、産地で魚を食べ舌を磨き、高品質な魚を探し、取引先である飲食店や小売店にできるだけ直接会いに行きます。この積み重ねが今の仕事を支えています。もちろん時間もお金もかかりますが、それを惜しんでいては味覚も感覚も磨かれません。現場で魚を食べ、その土地の空気や水、扱う人の姿勢を感じ取ることこそ魚の価値を判断する唯一の方法だと思っています。ベンツを売る人がベンツのことを知らなければ誰も買いたいと思わないように、魚も同じです。自分が卸す魚の味を知っているからこそ取引先は安心して仕入れられます。私が全国を回るのは単に仕入れのためではなく味を確かめ責任を持ち、お客さまが安心して提供できるようにするためです。それが私の役割であり経営者としての誇りです。
社員が即断即決できる会社へ

経営者が前に出れば大きな利益を上げることはできます。しかしそれでは人が育ちません。言われてから動くような社員では仕事を他の業者に取られてしまうのです。だから私はできるだけ実務から一歩引き、人を見極めてやる気や才能がある人に任せています。即断即決できる社員を育てることこそが会社の未来だと考えています。
現場主義を貫き、魚の価値を自らの舌で確かめる
経営者は一歩引き、陰ながら従業員を支え育てる