中田 麻奈美

ナカミ創造研究所
中田 麻奈美
MANAMINAKADA

企業の中身は人であり、それを『創造』していく。人財育成のサポートをはじめ、さまざまな活動を展開している代表。
掲載日2025.1.15

ナカミ創造研究所 中田麻奈美代表「企業の中身は人であり、それを『創造』していく」【松本市】

企業の中身は人であり、それを『創造』していく。人財育成のサポートをはじめ、さまざまな活動を展開しているナカミ創造研究所の中田麻奈美代表に、ご自身の独立のきっかけや、企業とのかかわり方などについてお話を伺ってきました。

インタビュアー
楠田 陽子

企業の中身は人であり、それを『創造』していく
人財育成のサポートをはじめ、さまざまな活動を展開している

目次

就職氷河期に公務員へ

私が就職活動をしていた時期は、就職超氷河期の真っ只中でした。だから、民間企業への就職は難しいだろうと考え、公務員一本に絞って就職を目指していました。大学院には合格していたものの、経済的な理由で就職を優先していたのです。地元の九州に残りたいという思いから、地方公務員を第一志望にしていましたが、結果は不採用。それでも国家公務員の化学職には合格し、税関を受けましたが、これも不採用という結果に。試験には合格したのに、採用されないという状況に陥ってしまいました。そうして、内定がないまま10月1日の内定式を迎えたんです。周囲が盛り上がる中、私はとても苦々しい気持ちでいました。経済的な事情も確かにありましたが、もう就職は諦めようと思い、大学院進学を決意しました。

そんな時、一本の電話がかかってきたのです。「東京工業大学です。麻奈美さんの就職状況はどうなっていますか」と。苦々しい思いを抱えていた私は、思わず感情的になって「決まっていません!大学院に行きますから!」と怒りを込めて電話を切りました。「こんな時に一体何の用だ」という気持ちが強かったのです。しかし、少し時間が経つとその内容が気になり始め、勇気を出してかけ直してみました。すると、東京工業大学で公務員として働かないかという話だったのです。その後、面接を経て、東京で働くことが決まりました。

東京から長野、大学からジャム会社へ

大学院では修士の学生と同学年で、院生のように研究にも従事させていただき、仕事もアフターファイブも楽しみながら社会人生活を謳歌していました。その後家族都合で信州に移住することとなり、地元のジャムメーカーに転職することになったのです。

リーマンショックの逆境からの学び

当時、私が入社したジャム会社はリーマンショックのあおりを受けていました。私の配属された部署でも、取引先からの値下げ要求に応えるため、品質を下げた商品開発ばかりが行われていたんです。新卒採用はなく、入ってくるのは欠員補充の中途採用のみ。採用後は名ばかりの現場研修を経て、すぐに配属先に投入される状況でした。私も例外ではなく、この現場研修では各部署でアルバイトのように使われるばかりで、何が何だか全く分からないまま商品開発に従事することになりました。しかも、一年ほどで私は産休に入ることになり、仕事を一時離れてしまいました。

産休から復帰した頃には、唯一の先輩社員が退職しており、一人で作業をこなさなければならない状況に追い込まれました。復職後、再び現場研修を受けることになりました。この時は以前と違い、それまでのわずかではあるものの確かな商品開発の経験を基に、自分なりに学びたいことをピックアップして臨みました。言うなれば、自分自身が研修のプランナーとなり、学びを進める形をとったのです。そのおかげで、初回の研修よりも効果的に知識を身につけることができました。ただし、これは私が多少なりとも経験を積んでいたからこそ成し得たことだと思います。

新卒育成で気づいた仕事の本質

入社から4年ほど経った頃、会社では約20年ぶりに新卒採用が行われることになり、私の部署にも新入社員が配属されました。その当時、私は2人目を妊娠しており、8月には産休に入る予定でした。4月に入社した新入社員は、8月には先輩がいなくなるという状況。そのため、私自身もわずか4か月で仕事ができるように後輩を育てなければならないというプレッシャーがありました。さらに、新入社員は「ゆとり世代」と呼ばれる世代で、すぐに辞めてしまうのではという不安もありました。自分が受けたような研修では対応できないと危機感を覚え、各部署の方々と相談しながら、「自分がこう教えてほしかった」を基に教育マニュアルを作成しました。これが、私が社員教育に興味を持ち始めたきっかけの一つです。

結果として、新入社員は4か月で商品開発の作業を行えるようになりました。しかし、当時は取引先の要求に応じた商品を作ることはできても、自社商品をゼロから開発するという経験がありませんでした。私自身、ほとんどなかったんです。そんな中、産休中に後輩から電話で尋ねられた「売れる商品ってどう作るんですか?」という言葉に、私は答えられませんでした。その時、初めて気づいたのです。作業を教えることはできても、「仕事」を教えられなかったということに。そして、それは当然のことでした。私自身が、「仕事」とは何なのか、まだ理解できていなかったのですから。

育休中の学びが仕事観を変えたきっかけ

先の出来事を経て、私は「仕事」をもっと深く理解しなければと考えるようになりました。ただ、その勉強方法が分からず模索していた時に、中小企業診断士という資格の存在を知ったんです。この資格は、経営全体を引き受けるような役割を担うもので、その幅広さに興味を持ちました。育休中ということもあり、勉強に集中できる環境が整っていたのに加え、すでにテキストが整備されていて学習しやすかったこと、そして明確な試験制度があることで目標を立てやすかったのも始める理由の一つでした。この時は、独立を目指すわけでもなく、ただ興味本位で学び始めたんです。合否についても、それほど重視していませんでした。

その後、中小企業診断士の勉強を進めながら仕事に復帰しました。学んだ知識を仕事に応用したいという思いが強まる中で、ちょうどそのタイミングで現社長(当時の常務)が後継者としてのスイッチを入れ始めていました。経営塾のようなものに参加し、そこで作り上げた経営理念を社員の前で発表したのです。今まで会社に経営理念はありませんでした。だから、私は「ついに何かが始まった」と感じもしました。しかし、今までまったくそういったことにかかわりのなかった社員たちは、ほとんど戸惑うばかりでした。そうした中で、初めは各部署に大きく張り出された経営理念も、次第に社員の関心を失い、ただの壁の背景と化してしまいました。

経営理念浸透プロジェクトで見えた社内改革の可能性

経営理念が発表されてから約2年が経った頃、当時の総務の方へ、常務から「この経営理念を社内に浸透させたい」という相談がありました。私は総務の方と親しく、そんな話があると聞かせてもらい、興味を持ちました。ちょうど自分が勉強していた内容に関連していたこともあり、「一緒に考えたい」と申し出たんです。そして、企画書を作成し、経営理念浸透プロジェクトを立ち上げることになったのです。今振り返ると、いろいろなタイミングが重なっていたのだと思います。

その後、私は3年間ほどこのプロジェクトの委員長のような立場で活動しました。各現場の若手を中心とした社員たちを巻き込み、月に一度のペースで「何をすれば理念を浸透できるか」を話し合い、実行していきました。たとえば、「いいね」「助かった」と思ったことを匿名で記入し、投書する箱を設置。ある程度溜まったら、季節ごとのデザインで掲示する取り組みを行いました。もちろん、こうした新しい活動には反対意見や拒否反応も少なくありませんでした。「幼稚園みたいで嫌だ」と言われることもありました。

その他にも、理念の中に「笑顔の食卓文化を創造し」という文言があったため、「”創造”するために“想像”しよう」をテーマに、「笑顔の食卓コンテスト」を企画。参加者には作文や絵、紙粘土など、自由な形式で作品を提出していただきました。中でも特に印象的だったのは、ドールハウスのミニチュアのような凝った作品を作ってきた方です。この方はそれまでプロジェクトに否定的な態度を示していた人でした。この出来事をきっかけに、社内の風向きが変わり始めました。それぞれが大切に思うモノや気持ちを共有できたことから、会社にも大切な想いがあることを自然と受け入れてくれたのだと思います。少数の委員会メンバーが始めた活動に共感する人が徐々に増え、それが次第に社内全体へと広がっていきました。この経験を通して、私は「これを仕事にしたい」と強く考えるようになったのです。

ナカミ創造』を仕事として

独立を決断したことは確かに大きな出来事でしたが、何も考えずに突然独立したわけではありませんでした。もともと夫との共働きで生活基盤が整っており、急に食べられなくなるような状況ではなかったこと。独立時には、公的機関である長野県よろず支援拠点のコーディネーターとしての仕事がある程度確保されていて、日当制ではありますが、いきなり収入がゼロになる心配はなかったこと。この点が独立の大きな後押しとなりました。

こうした働き方に出会えたきっかけは、中小企業診断士の勉強中にありました。資格の合格者と受験者が一緒に取り組む試験対策本の出版プロジェクトに参加した際、講師の方から関連する求人について教えてもらったのです。一度は県の関連業務に合格したものの辞退してしまいましたが、その後、よろず支援拠点の仕事と出会いました。この頃から、「ナカミ創造研究所」という屋号を掲げて活動を始めました。この名前には「企業の中身は人である」という理念が込められています。人財育成のサポートをはじめ、さまざまな活動を展開してきました。よろず支援拠点での仕事は5年ほど続けましたが、現在はその業務から離れ、自分自身の力で仕事を行っています。

指示ゼロ経営®で描く未来

「企業の中身は人であり、それを『創造』していく」――これが私の活動の理念です。その思いから、指示ゼロ経営®を提唱する米澤晋也さんに学び、認定講師としてチームビルディング研修等を提供しています。例えば、とある企業では「未来の日付」で自分たちの希望が叶ったというストーリーを『夢実現新聞』という形で書いてもらいました。この新聞には、「この日にこういったことが達成され、その中で自分はこういう役割を果たした」という内容をすべて過去形で記入してもらいました。この手法の狙いは、仕事を「自分事」として捉えてもらうことにあります。仕事の動機や目的はそれぞれ多様ですが、各々の望みを叶えるためには、企業としての目的を果たし成功しなければなりません。だからこそ、そこで、「どうすればお客様に喜んでもらえるか」を社員一人ひとりが自分のこととして考える姿勢を育てることが重要です。

『夢実現新聞』を取り入れた企業からは、「新聞に書いたことが前倒しで実現している」という嬉しい報告をいただきました。研修は単なるきっかけで、あとはその企業の皆さんが自分たちで頑張って進めてくださった結果です。私は逐一進捗を確認することはありません。ただ、「こういう方法もありますよ」と伝えるだけ。それでも大きな成果を生み出せるのは、社員の主体性と努力が鍵だと感じています。

学生へ――努力する習慣をつけること

学生のうちに勉強をすることはとても大切だと思います。それは、知識を増やすためだけではありません。勉強を通じて、コツコツ努力を積み重ねる習慣を身につけることができるのです。努力する習慣は、将来どんな場面でも必ず役に立つものです。また、自分の時間を自由に使える学生時代に、どこへでも行き、多くの経験を積むことも大切だと思います。社会人になると、自分だけの時間を取り戻すには多くの努力や時間が必要になります。そのため、学生の今この瞬間を大切にし、有意義に過ごしてほしいと心から願っています。

中田 麻奈美
中田 麻奈美
MANAMINAKADA
1979年鹿児島県生まれ。九州大学農学部卒業。2002年東京工業大学(現東京科学大学)大学院に就職。2008年、株式会社スドージャム入社。2017年、ナカミ創造研究所設立。
ナカミ創造研究所

住所:〒390-0871
長野県松本市桐2-4-46-6

TEL:080-5170-6944

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